2005年05月20日
●江戸川アパートメント 1991
関東大震災後に設立された同潤会によるアパートメントシリーズの一つです。シリーズの最後期に位置し、竣工は1934年です。当時はその規模、設備において東洋一と称されたそうです。学生の頃、お化けアパートがあると聞いたのがきっかけで、興味を持つようになりました。中庭を囲む美しい配置計画に、少し荒れた独特の雰囲気が加わって、時間の流れを止めたような懐かしい風景を作っていました。日付は1991年4月5日です。先日近くまで行った際に見に行ったら、今風のマンションに建て替わっていました。生活の場なので、時代に合わせて形を変えていくことは必然です。しかし、土地の記憶ともいえる「中庭」の引き継ぎ方はもっと工夫して欲しかった。
左手が6階建ての一号館、右手が4階建ての2号館、全部で260戸の計画でした。現代の中庭型団地、幕張ベイタウンとの比較に興味が湧きます。
桜、雑草、水場。どこにでもありそうで、あまりない景色。70年の歴史は長かったのでしょうか短かったのでしょうか。
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近代化の本場の欧州では、コンクリート建築物はどうなっているのでしょうか。コンクリートが汎用化して100と何十年。石の建築とともに生き残っているのでしょうか。
mizdesignさんの話から、日本人が計画的な中庭をもって80年くらい過ぎているのに、使いきれていなかった。と、いうことなのでしょうか。それよりも経済性が優先されたということなのでしょうか。そうなると、建築計画は無力だなあ。もともと効力がないという話を聞きますけど。。。
保田窪、幕張ベイタウン、東雲コーダン。相変わらず「中庭」は建築家や計画者たちしか採用してくれないのでしょうか。もちろん、積極的な意味での「中庭」というモノです。
佐藤K様>
「欧州」ではくくりが大きすぎて分かりませんが、観光に力を入れているところとかではけっこう残っているのではないでしょうか。地震がなければ、メンテすることで長持ちしそうです。
建築計画は経済性に比べると優先順位が低いかもしれませんね。でも街が成熟するにしたがって、経済だけでは成立しない部分も増えてきます。まずは景観を味方につける工夫を計画側で練ることが必要かと。
数年前に保田窪を見学する機会があったのですが、あそこは他の2例とは全く別物です。例えるならば、他2例はTokyo, Japan、あそこはアジアです(すっごい生な)。
なるほど、山本理顕は建築としてはジャーナリズムに取り上げられるような「かたち」にしておいて、実質は日本的でない「もの」を創った。という感じですか。
「アジア」か。日本の建築家のなかで、「アジア」を建築化しようとする人はどのくらいいるのだろうか。team Zooは、「アジア」を意識しているように思えます。他は?
でも、「アジア」もくくりが大きいな。「東アジア」くらいにしておきます。
佐藤Kさん>
保田窪は構想段階から密閉式中庭とブリッジのある住戸が存在するのですが、それがいざ実現すると強烈なインパクトのある場所となります。外から様子の伺えない中庭、他住戸から覗けてしまうブリッジ、結露もけっこうする打ち放し。評価は各人がするとして、必見といいたい計画です。外からは全く見えないのが残念。